「もう『心配されない存在』でいようとしなくていい」

新入社員である私は、よく先輩にこう言われる。

「お前は本当に分かってなくても『わかりました!』って言うよな」

合理的に考えれば、わかってもいないことをわかったフリをすることは不都合だ。ましてや「新卒」というカードをこちらが持っている以上、「期待を裏切られた」と相手が思うことも少ない。むしろ「わかっていてもわかっていないフリをする」くらいが(先輩に可愛がられやすいという点でも)一番得られる物が大きい。

 

なのに何故私は分かったフリをしてしまうのだろうか。

いくつか思いつくが、「人に迷惑をかけてはいけない」「心配される存在であってはいけない」という信念を持っているから、という可能性が高そうだ。

私は三人兄弟の一番上で、家全体の状況について、ずっと気を配っていた。弟と妹は反抗期が長く、しょっちゅう親と揉めていた。私は、そこに入る訳にもいかないから、いつも部屋で大人しくしていた。「あなたは大人しいよね」「(勉強等について)何の心配もしてないよ」という言葉を受けながら生活をしていた。だからきっと、「心配をかけないように生活する」ということが行動指針になっていたのだと思う。

人に迷惑をかけてはいけない、失望をさせてはいけない。そう考えれば必然的に口数は少なくなり、物わかりの良いフリをするしかなくなる。

全てを家庭環境のせいにするわけではないが、こういったバックグラウンドがあるため、この考えそのものはとてもしっくりとくる。

 

この今回指摘された「なんでもわかったフリをする」をABC理論に当てはめると

A.出来事:「相手のリアクションがある」

B.信念:「自分はこれ以上迷惑をかけてはいけない」

C.結果:「すぐに話を切り上げようとする」

といったところだろうか。

「迷惑をかけてはいけない」「自分が話してる時間は相手にとって迷惑だ」と思ってるのに相手の時間を取って話を続けることは苦痛だ。だから結果だけを変えようとするのはとても難しい。

Bに対する反論だけならば実は簡単だ。「迷惑をかけるのが仕事だ」と反論さえすればいい。でも今回、自分に対してもっと何か優しい言葉を、肯定の言葉をかけられないかと思って、別の言葉を探してみた。そしたら、すぐにふと浮かぶように、見つかった。

 

「もう『心配されない存在』でいようとしなくていい」

 

この言葉を自分に語りかけたとき、私は身体が、急に軽くなるのを感じた(同時に、職場のデスクにいるにも関わらず泣きそうになって大変困った)。「これが自分が欲しかった言葉なんだ」と、そう思えた。

人と繋がり続ける方法を他に知らないから、周りに心配をかけまいと気を配り、用意周到に振る舞おうとする自分。それは確かに人の役に立つこともあったかも知れないけれども、痛々しい努力だ。

 

誰かに心配をかけても私は人と繋がれる。繋がれていることを感謝する方が、その感謝を伝える方が、心配されないように気を配るより、遥かに大事だった。

仕事も人と繋がるための一手段である以上、心配はかけて当たり前。大事なのは自分の役割を、しっかりと全うすること。そうすれば、自然と繋がりは作られてくる。

 

誕生日にもらった、「たまには心配させてね」という言葉。

今、改めて見返すと、とても嬉しくて、でもおんなじくらいに申し訳ない気持ちです。

 

「お前心配させすぎだよ!」と突っ込まれるくらいになれたらいいな、と思う。

そんな感じで自意識過剰なブログのリニューアルです。